北原家の二つの家紋が語る
- 北原
- 4月12日
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序 家紋という一次史料
歴史の証言は、文字だけが担うわけではない。
伊那市高遠町藤沢の弘妙寺(ぐみょうじ)の墓所に、二つの家紋が刻まれている。
「三つ鱗(みつうろこ)」と「丸に二つ引き(まるにふたつびき)」。
これは北原家の家紋である〔注1〕。
「三つ鱗」は北条氏の象徴として広く知られる。「丸に二つ引き(二つ引両)」は足利氏の代表的な家紋である。本来、北条と足利は鎌倉幕府滅亡をめぐる仇敵の関係にある。その両氏の紋を、なぜ一つの家が持つのか。
この問いに答えるとき、十四世紀中葉の信濃国・伊那谷で起きた出来事が、唯一の合理的な文脈として浮かび上がる。
二つの家紋は、北原家の来歴を語る、墓石に刻まれた一次史料である。
〔注1〕弘妙寺(伊那市高遠町藤沢)における北原家の家紋「三つ鱗」および「丸に二つ引き」については、管理者による現地調査にて直接確認。北原家所蔵の非公開資料にも「北条権頭時方」に関連する記述が存在する(後述)

第一章 鎌倉が終わった日
元弘3年(1333年)5月、鎌倉が陥落した。
新田義貞の軍勢が稲村ヶ崎から市中に入ったとき、北条高時以下の一門は葛西ヶ谷の東勝寺に集まり、火を放って自刃した。百五十年続いた鎌倉幕府は、数日の戦闘で消滅した〔注2〕。
しかし北条高時の遺児・時行は、この時まだ幼く、忠臣の手で城外へ連れ出されていた。彼が落ち延びた先として後の史料が示すのは、信濃国・諏訪の地である〔注3〕。
諏訪大社の大祝(おおほうり)・諏訪頼重が時行を匿った。諏訪氏は鎌倉幕府と深い関係を持ち、御家人として幕府の祭祀と軍事を支えてきた一族であった〔注4〕。
時行はこの地で、再起の時を待った。それが何年続くかを、当時の誰も知らなかった。
〔注2〕北条高時・一門の東勝寺における自刃については『太平記』巻十「東勝寺合戦の事」に記述がある。軍記物語としての史料批判は必要だが、幕府滅亡の基本的経緯は『梅松論』など同時代史料でも確認できる。
〔注3〕北条時行の諏訪への逃避については、中先代の乱(1335年)の経緯を記す複数の史料から逆算して推定されており、鎌倉陥落直後の具体的移動経路を詳記した一次史料は現時点では確認されていない。
〔注4〕諏訪氏と鎌倉幕府の関係については、諏訪大社文書(長野県立歴史館所蔵)に関連する記録が残る。
第二章 二十日間の奪還
建武2年(1335年)7月、大祝 諏訪頼重は動いた。
時行を旗頭に、信濃・上野・武蔵の旧北条恩顧の武士たちを糾合し、南下を開始する。「中先代の乱」の始まりである〔注5〕。
この反乱の特徴は、その速度にある。軍勢は木曽路を南下し、各地の足利方の守備を破りながら鎌倉へ向かった。そして同年8月、時行の軍は鎌倉に入城した〔注6〕。
鎌倉を守っていた足利直義(尊氏の弟)は防ぎきれず、西へ逃れた。
北条の旗が再び鎌倉に翻った。しかしそれは長くは続かなかった。
尊氏が京都から東下した。鎌倉 諏訪頼重、時継(子)は勝長寿院で自刃。時行は再び北へ逃げた〔注7〕。
どこへ向かったか。信濃へ、再び。
〔注5〕中先代の乱の経緯については『建武年間記』『梅松論』に記述があり、鈴木由美『中先代の乱』(中公新書、2022年)が現在の研究水準を示す基本文献として参照できる。「中先代」とは足利(後代)でも北条(前代)でもない「中間の代」という意味で、尊氏方が時行を貶めた呼称とされる。
〔注6〕時行軍の鎌倉入城の時期はおおむね建武2年8月とされる。
〔注7〕諏訪頼重・時継(子)の敗死については太平記などの複数の史料が記録している。
第三章 権殿屋敷跡と、語られた名前
中先代の乱の敗北後、時行を中心とした北条方の人々は信濃の山中へと入った。
時行自身は南朝(後醍醐天皇方)に帰順し、足利氏への抵抗を続けた〔注8〕。しかし彼の居所が長期的にどこにあったかを示す一次史料は乏しく、信濃における潜伏の具体的な経は、文書よりも伝承の方が多くを語っている。
藤沢地区(現・伊那市高遠町藤沢)に、「権殿屋敷跡」という地名が残っている。
この地名と、そこに結びついた「北条権頭時方」という人物伝承は、単なる民間の口承として片づけることができない根拠がある。
『中先代の乱』(中公新書、2022年)の著者・鈴木由美氏は、この権殿屋敷跡について著作の中で言及している〔注9〕。北条時行を中心とした人々の信濃における足跡を研究する上で、この藤沢の地が検討対象となっているという事実は、地域伝承の信憑性を裏付ける重要な傍証である。
また、北原家には「北条権頭時方」に関連する記述を含む資料が所蔵されている。この資料は現時点では非公開であるが、その存在は確認されており、北原家の来歴と「時方」という人物の結びつきが、口承のみに依拠するものではないことを示している〔注10〕。
「時方」が時行の別称なのか、時行と行動を共にした一族の者なのかは、現時点の公開史料では断定できない。しかし「北条」という固有名を保持したまま、この伊那谷の奥深くに伝承が根づいたという事実の重みは、軽くない。
〔注8〕北条時行の南朝帰順については、暦応・康永年間における鎌倉周辺での戦闘参加が史料に散見される。
〔注9〕鈴木由美『中先代の乱――北条時行、鎌倉奪還の戦い』(中公新書、2022年)における権殿屋敷跡への言及。同書は中先代の乱を本格的に論じた現在もっとも参照すべき研究書であり、伊那・藤沢地域と北条時行の関わりについての記述は、地域伝承の学術的検討として重要な位置づけを持つ。
〔注10〕北原家所蔵の「北条権頭時方」関連資料については、管理者は情報提供を受けた。(元本のコピーあり)
第四章 文書が証言する前線
観応2年(1351年)3月。
この時期の信濃における戦闘を証言する文書が、今も残っている。
『市河経助軍忠状』である〔注11〕。
市河経助は信濃国の武士で、観応の擾乱の過程で軍功を挙げ、その詳細を記録した。この種の「軍忠状」は武士が自らの軍功を記し恩賞請求の根拠とした文書であり、同時代性と具体性において一次史料として信頼性が高い〔注12〕。
この文書および『信濃史料』の関連記録から、観応2年前後の信濃において、足利直義派の軍勢が組織的な軍事行動を展開していたことが確認できる〔注13〕。
この時期、信濃における直義派の軍事行動を実質的に担っていたのが鎌倉で自刃した
諏訪時継の子、諏訪直頼である。中先代の乱で戦死した諏訪頼重の孫にあたり、諏訪の地縁と軍事力を背景に、直義派の信濃における前線を担った人物である〔注14〕。
中先代の乱で時行を庇護した諏訪氏の流れを汲む直頼が、今度は直義派の指揮官として伊那谷に展開している。時行を中心とした北条方の人々と、地縁・旧縁の両面で繋がり得る位置に、諏訪直頼はいた。
〔注11〕市河文書は長野県立歴史館をはじめ複数の機関に所蔵・翻刻されており、信濃中世史の基本史料の一つとして位置づけられている。市河氏は信濃国埴科郡を本拠とした武士。
〔注12〕軍忠状の史料的性格については、佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)ほか中世武士研究の基本文献を参照。
〔注13〕『信濃史料』は長野県が編纂した信濃国に関する史料集成で、複数巻にわたり観応年間の記録を収録している。
〔注14〕諏訪直頼の観応の擾乱における役割については、小林計一郎編『長野県の歴史』および信濃史研究の諸論文が参照できる。
第五章 奇妙な同盟
観応元年(1350年)秋、政治の地図が塗り替わった。
足利尊氏と弟・直義の対立が武力衝突へと発展した。「観応の擾乱」の始まりである。
この内乱が生み出した最も奇妙な結果の一つが、時行を中心とした北条方と、足利直義との同盟である。
鎌倉幕府を倒した足利という観点からすれば、北条は仇敵である。しかし「観応の擾乱」という特殊な文脈においては、尊氏という共通の敵を前に、両者の利害が一致した。直義は南朝に帰順し、同時に時行を中心とした北条方の人々とも連携した〔注15〕。
その当時、足利直義は40半ば。諏訪直頼と北条時行は20代前半。諏訪時継の子は3人と言われており、諏訪頼継(直頼)・諏訪継宗・諏訪信継がいた。
そして時代の論理は、かつての敵を同じ陣幕の下に引き寄せた。
この同盟が成立した背景には、宗良親王・足利直義・北条時行・諏訪直頼という媒介者の存在も見逃せない。諏訪氏はもともと時行を庇護した一族であり、今や直義派の信濃指揮官でもある。時行と直義をつなぐ人的回路は、すでにこの地に存在していた。
〔注15〕観応の擾乱における直義と北条方の連携については、亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書、2017年)が詳しい。北条時行が直義方として行動したことは同書でも論じられている。
第六章 直義、信濃を越える
観応2年(1351年)8月、尊氏との京都での和睦が崩れ、足利直義は京都を離れた。
北陸(越前・加賀)を経て東へ向かい、信濃国を通過して鎌倉へ入った。
これは史料によって確認できる事実である〔注16〕。
直義が信濃を通過した際、沿道の直義派武将たちと合流・接触しながら進んだことは疑いない。ただし、信濃内部の具体的な移動経路については史料が十分に語っておらず、北信・東信を通ったか伊那谷へ南下したかは確定できない。
しかし問うべきは、直義の足跡の正確な座標ではないかもしれない。
諏訪直頼が伊那谷を前線基地として展開しており、時行を中心とした北条方がこの地にいた。直義の意志は文書と使者によってこの地に届いていた。中世の主従関係において、主君が直接その場にいることよりも、意志と命令が届くことの方が、政治的には本質的な意味を持つ。
〔注16〕足利直義の信濃経由での鎌倉入りについては、『園太暦』『師守記』など京都の公家日記に断片的な記録があるほか、『信濃史料』関連の記述でも確認される。
第七章 二つの家紋が証言すること
ここで改めて、弘妙寺の墓所に戻る。
「三つ鱗」と「丸に二つ引き」。これが北原家の家紋である。
この二つが並んでいるという事実を、観応の擾乱という文脈に置いたとき、それぞれの紋が担う意味が浮かび上がる。
「三つ鱗」は出自を示す。この家が北条の血脈に連なることを、石は静かに証言している。
「丸に二つ引き」は時代を示す。観応の擾乱において、時行を中心とした北条方が直義派として戦ったこと、その同盟・軍功の証として「二つ引両」の紋の使用を許されたという推論は、中世武士社会における紋の授受の慣行と、当時の政治状況の両方に根拠を持つ〔注17〕。
重要なのは、この二つの紋が「矛盾」として並んでいるのではないという点である。
北条でありながら足利直義派として戦った。この時代にしか生まれ得なかった立場を、北原家の祖先は二つの紋として残した。隠すでも誇示するでもなく、菩提寺の石に、両方を刻んだ。
それが意図的な記録だったのか、それとも単に二つの家紋を継承した結果なのかを、現在の史料では判断できない。しかし、この二つが並んでいるという事実そのものが、観応の擾乱という激動の時代を生き延びた一家の歴史を、六百年以上にわたって語り続けている。
文書は焼け、人は死に、記憶は薄れる。しかし墓石に刻まれた紋は残った。
〔注17〕中世における家紋の授受(拝領紋)については、田中稔『中世武士の家紋』(吉川弘文館)などを参照。主君が家臣に紋・偏諱・感状を与えることで主従関係を強化する慣行は、南北朝期に広く確認されている。ただし北原家への具体的な紋の授受を記録した文書は現時点では発見されていない。
終章 「北原」という名の選択
観応3年(1352年)2月、足利直義が鎌倉で死んだ〔注18〕。
翌年、北条時行は捕らえられ、処刑された〔注19〕。
中先代の乱から数えて十八年の抵抗は、ここで終わった。
伊那谷の奥に根を下ろしていた者たちがその後どうなったか、公開された史料は語らない。しかし北原家の所蔵資料が「北条権頭時方」との繋がりを記録し、鈴木由美氏の研究が権殿屋敷跡に注目し、弘妙寺の石が二つの家紋を保ち続け、「北原」という苗字が何百年もの時を越えて伝わった。
「北原」という名の由来を確定する史料はまだ公開されていない。しかし「北」という字が北条の記憶を宿している可能性を、この考察全体の文脈は静かに示唆している。
出自を完全に消すことなく、しかし表立てることもなく。二つの家紋と一つの苗字の中に、時代の記憶を封じ込めて。
それが、伊那谷の山の懐に根を下ろした人々の選んだ形だったのかもしれない。
最後に、諏訪直頼は足利直義と共に行動をしており〔注20〕北原先祖の伝承として、高遠の家老をやっていたというのも恐らく事実であり高遠の家老であれば、諏訪氏。
家紋と菩提寺にある資料からだと北条氏。
まだまだ答えが見つからない。
〔注18〕足利直義の死(観応3年2月26日)については『園太暦』などの公家日記に記録がある。毒殺説は当時から存在するが、確定的な証拠は現時点にない。
〔注19〕北条時行の処刑については『太平記』に記述があるが、正確な日付・場所については史料間で差異がある。文和年間(1352〜1356年)中の処刑とする見解が一般的。
〔注20〕市河経助軍忠状 | 市河文書