【新説】高遠藤沢北原には二つの「北原氏」が存在した?
北条時方伝承と諏訪直頼・高遠移住系譜を結ぶ、私の仮説
長野県伊那市高遠町藤沢の北原地区には、北条氏を思わせる「三つ鱗」を刻んだ墓と、足利氏を思わせる「丸に二引両」を刻んだ墓が存在する。
(蓮華寺撮影)

(弘妙寺撮影)

また、現地での聞き取りや家に伝わる話を整理すると、北原には北側と南側で異なる家のまとまりがあったように思われる。菩提寺についても、北側は弘妙寺、南側は蓮華寺・長久寺との関係が強かった可能性がある。
さらに北原地区には「殿垣外」という地名も残っている。
なぜ同じ北原地区に、祖先伝承、菩提寺、家紋の異なる家々が存在するのだろうか。
私は、藤沢北原には単一の北原氏だけでなく、異なる由来を持つ二つの系統が存在したのではないかと考えている。
一つは、弘妙寺に伝わる「北條權頭時方―權藏氏方―北原姓」という北条氏系統。もう一つは、諏訪直頼の子孫が高遠へ移り、その後、北原という土地から北原姓を名乗った系統である。
これは、まだ歴史学上確定した説ではない。しかし、諏訪氏関係の系図を確認すると、この仮説を考えるうえで重要な記載が見つかる。
時継には三人の子がいた
『諏訪史料叢書』巻28所収「神氏系図称一族系図」では、諏訪時継の子として、頼継・継宗・信嗣の三人が記されている[注1]。※頼嗣・信嗣の書いた書状添付画像あり
さらに信嗣については、実は頼継の弟であり、頼継の猶子となって大祝職を継承した、と記されている[注2]。
つまり系図上では、頼継の実子ではなく、弟の信嗣が大祝職を継いだことになる。
ただし、頼継が自分の意思で弟に大祝職を譲ったのか、それとも諏訪氏内部の事情によるものだったのかは、系図には書かれていない。
頼継の実子は神職を継がず、高遠へ移った
最も重要なのは、その後に続く注記である。
同系図は、頼継には実子がいたものの、事情があって神職を継がず、伊那郡高遠に住んだと記している。
1921年刊行の『諏訪氏系図 正編修補』も、頼継について、
頼嗣・頼寛・直頼とも名乗った
子孫は神職を継がなかった
伊那郡に住んだ
「高遠信濃守」と号した
と説明している[注3]。
この系図記載に従えば、頼継の系統は次のように分かれたことになる。
これは「諏訪直頼の子孫が高遠へ移った」という伝承を考えるうえで、非常に重要な記載である。
もし高遠へ移った頼継の実子・子孫が、後に居住地である北原を名字として採用したのであれば、「諏訪直頼の子孫が北原氏になった」という家伝にも、一つの説明がつく。
ただし、確認した系図本文には「北原」という名字までは記されていない。
したがって、「頼継の実子系統が高遠へ移った」ことは後世系図上確認できるが、「その子孫が北原氏になった」ことは、現在も検証を必要とする仮説である。
北条時行と頼継は大徳王寺城で共に戦ったのか
神長官守矢家文書の「守矢貞実手記」は、暦応3年(1340)の伊那郡大徳王寺城の戦いを記録している[注4]。
原文には「相模次良殿」と大祝頼継が現れる。「相模次良」は北条時行を指すとするのが、現在の一般的な人物同定である。
この同定が正しければ、北条時行と頼継は同じ陣営に属し、伊那郡大徳王寺城で小笠原勢と戦ったことになる。
北条時行の正確な生年は分かっていない。一方、後世系図の頼継は建武3年(1336)に8歳だったとされる。数字をそのまま史実とはできないが、時行と頼継が比較的年齢の近い若い世代だった可能性は考えられる。
二人はそれぞれ、1335年の中先代の乱で祖父・父・一族を失った世代だった。
北条時行は北条氏再興を目指し、頼継は祖父頼重・父時継の死後、諏訪氏と大祝家を背負う立場になった。その二人が再び伊那郡で小笠原勢と戦ったという構図は、史料の記載とも矛盾しない。
ただし「守矢貞実手記」が記す場所は、あくまで「伊那郡大徳王寺城」である。
頼継=直頼と足利直義の関係
後世の『諏訪氏系図 正編修補』は、頼継・頼嗣・頼寛・直頼を同一人物としている。
この同定が正しければ、1340年に北条時行と共に戦った頼継が、その後「直頼」と名乗り、観応の擾乱では足利直義方として活動したことになる。
観応2年(1351)の市河経助軍忠状について、長野県立歴史館は、諏訪直頼が京都から信濃へ戻り、市河氏らを率いて尊氏方の小笠原氏や高師冬方を攻撃した文書と説明している[注5]。
これにより、
直頼とされる人物が京都に滞在した
京都から信濃へ下向した
観応の擾乱では足利直義方として行動した
という流れが考えられる。
ただし、軍忠状の本文には「諏訪直頼」という実名が直接書かれていない。証判者を直頼とするのは、付箋・花押・後世の研究による人物同定である。
また、直頼が京都で足利直義本人と直接面会したことを記す一次史料も、現在まで確認できていない。
「直頼」という名前の「直」が足利直義から与えられた偏諱だった可能性は興味深いが、これも現段階では仮説である。
複数の名前は一人の生涯を示しているのか
ここで、私の家に伝わり、祖父たちがまとめた家系図について、もう一つ考えていることがある。
後世系図が記す、
頼継=頼嗣=頼寛=直頼
という人物同定が正しいとすれば、家系図に現れる「諏訪頼高」や「北原源太郎頼一」も、別々の人物ではなく、同じ人物が生涯の各段階で使用した名前だった可能性はないだろうか。
私が考えている仮説を整理すると、次のようになる。
「頼継」「頼嗣」は諏訪氏内部で使用した名前、「頼寛」は出家または宗教的立場に関係する名前、「直頼」は足利直義との政治的関係を示す名前だった可能性が考えられる。
さらに「頼高」の「高」は、高遠との関係を示したものではないか。
そして「北原源太郎頼一」の「北原」は新たに居住した土地の名前、「一」は北原を名乗った最初の人物、すなわち北原氏初代であることを表したのではないか、というのが私の解釈である。
もちろん、「高」が高遠を意味し、「一」が北原氏初代を意味することを直接証明する史料は、現在まで確認できていない。
「頼高」「頼一」が直頼とは別の人物であり、子や孫などの後継者だった可能性もある。また、家系図を作成する過程で、複数世代の人物が一人にまとめられた可能性も否定できない。
それでも南北朝時代のように政治的立場が目まぐるしく変化した時代には、元服・任官・出家・主従関係・居住地の変更などにより、一人の人物が複数の名前を使用すること自体は不自然ではない。
北条時行と共に小笠原勢と戦った頼継が、後に足利直義方の直頼として活動し、直義方の敗北後には高遠へ戻り、諏訪氏や大祝家との関係を前面に出さず、「頼高」あるいは「北原源太郎頼一」と名乗って生き残りを図った。
そのような人生だった可能性も、私個人の仮説として考えている。




「高遠」という地名はいつから存在したのか
この仮説を考える際に問題になるのが、「高遠」という地名がいつから使われていたのか、という点である。
一部では、文明11年(1479)が「高遠」の文献上の初見と説明されることがある。しかし、今回確認できた『日本歴史地名大系』の「高遠城跡」項目は、『神長守矢満実書留』文明14年(1482)6月30日条を初見としている[注6]。
同条には、
大祝殿・千野入道高遠御越有テ
とあり、大祝と千野入道が高遠へ赴いたことが記されている。
したがって、現段階で確認できた「高遠」の文献上の初見は、文明14年(1482)である。
ただし、1482年は「高遠という地名がこの年に誕生した」という意味ではない。
古文書に地名が初めて現れる年代は、その地名が実際に使用され始めた年代と必ずしも一致しない。古い文書が失われていることもあれば、地域内では以前から使用されていた地名が、現存する文書には遅れて現れることもある。
したがって、1482年以前に「高遠」という地名が存在しなかったと断定することはできない。
頼継・直頼が活動した1340~1350年代と、北原源太郎頼一が出家したのは1363年 現存文献上の初見である1482年との間には、およそ120~140年の隔たりがある。
これを暦年上の単純な「誤差」と扱うことはできないが、現存史料上の空白期間として考えることは可能である。
私は、この一世紀以上の空白を、高遠という地名が14世紀に存在した可能性を否定する決定的な材料とは考えていない。
後世系図が「頼継の実子・子孫は伊那郡高遠に住んだ」と記していること、1340年の「守矢貞実手記」が伊那郡大徳王寺城での戦いを記していることを考え合わせると、現在「高遠」と呼ばれる地域またはその周辺に、14世紀から諏訪氏系の軍事的拠点が存在した可能性は検討に値する。
ただし、「頼高」の「高」が高遠を意味することや、14世紀に「高遠」という文字表記がすでに使用されていたことは、まだ証明されていない。
文献上の初見は1482年だが、地名そのものが14世紀から地域で使われていた可能性は残る
と表現するのが、最も正確だと思う。
藤沢北原に二つの系譜が存在した可能性
以上の史料・系図・寺伝・家伝を組み合わせると、藤沢北原には次の二系統が存在した可能性が考えられる。
第一の系統――北条時方系
弘妙寺側には、
という伝承が残る。
明治初期編纂の『長野県町村誌』は、藤沢村の「ゴンドノ古屋敷」について、「北條權頭時方」が居住したという伝承を記録している[注7]。
京都の東寺百合文書にも、正慶元年(1332)8月3日付の「時方」発給とされる上久世庄公文職補任状案が残っている[注8]。
しかし、この京都の時方と、高遠の北條權頭時方が同一人物であることは、まだ証明されていない。
第二の系統――諏訪直頼系
もう一つは、
という系統である。
この系統が、蓮華寺・長久寺側の北原氏に当たるのではないか、というのが私の仮説である。
北条時方系と諏訪直頼系が、それぞれ別々に北原地区へ入り、同じ居住地の名前から「北原」を名字として採用したと考えれば、同じ北原姓でありながら、祖先伝承・菩提寺・家紋が異なることも説明しやすい。
三つ鱗と丸に二引両の墓
藤沢北原の墓地に、北条氏を想起させる「三つ鱗」と、足利氏を想起させる「丸に二引両」が併存することは、この二系統説を考えるうえで重要な手掛かりである。
三つ鱗を北条時方系、丸に二引両を諏訪直頼系と見ることは、仮説としては可能である。
直頼が足利直義方として行動した人物であれば、その子孫が足利氏との関係を示す紋を使用した可能性も考えられる。
北条方の残党であることを表に出すより、足利氏との関係を示す方が、後世の生活や家の存続に有利だったのではないか、という推測も成り立つ。
ただし、ここには慎重さが必要である。
丸に二引両は足利氏を広く表す紋であり、これを足利直義だけの専用紋だったと証明する同時代史料は確認できていない。また、尊氏と直義が明確に異なる家紋を使い分けていたと断定することも、現段階ではできない。
墓石の家紋が南北朝時代から連続して継承されたものなのか、江戸時代以降に家の由緒を表すために採用されたものなのかも調べる必要がある。
したがって現段階では、
丸に二引両の墓は、諏訪直頼の子孫が、足利氏または足利直義方との関係を伝えるために使用した可能性がある
という表現に留めるのが適切だろう。
現時点での結論
今回の系図調査で最も重要なのは、頼継の実子・子孫が神職を継がず、伊那郡高遠へ移ったと後世系図が明記していることである。
これは「諏訪直頼の子孫が高遠の北原氏になった」という家伝を検討するうえで、これまでに得られた最も具体的な系譜上の手掛かりである。
さらに私は、
という異名同一人物の可能性も、個人的な研究仮説として考えている。
南北朝の乱世を生き延びるなかで、政治的立場、主従関係、宗教的身分、居住地に応じて名前を変え、最終的に北原という土地に定着した人物だったのではないか、という見方である。
一方で、
高遠へ移った頼継の実子の名前
頼高・頼一と直頼の同一性
頼一の「一」が北原氏初代を意味するか
北原姓を名乗り始めた年代
蓮華寺・長久寺との関係
丸に二引両を使い始めた時期
「高遠」という地名が14世紀に使われていたことを示す同時代史料
は、まだ確認できていない。
現時点での私の仮説は、次のようになる。
藤沢北原には、北條權頭時方を祖とする北条系北原氏と、諏訪直頼またはその実子・子孫を祖とする諏訪系北原氏が、別々に存在した。両者は同じ北原という土地に住んだため、最終的に同じ北原姓を名乗った可能性がある。
三つ鱗と丸に二引両の墓、弘妙寺と蓮華寺・長久寺という菩提寺の違い、北原の南北の家のまとまり、そして殿垣外という地名は、この二系統が後世まで別々に意識されていた痕跡なのかもしれない。
ただし、これは複数の古文書、後世系図、寺伝、家伝、墓石、地名を組み合わせて考えた研究仮説であり、確定した史実ではない。
これは学説として結論を押し付けるものではなく、祖父たちが残した家系図と、地域に残る断片的な記憶を読み解く、私個人のライフワークとしての見解である。
新しい史料が見つかれば、この仮説は修正されるかもしれない。それでも、祖先が残した記録を一つずつつなぎ、その背景にどのような人生があったのかを考えること自体に、家系を調査する大きな意味があると考えている。
注釈・参考文献
[注1]諏訪教育会編『諏訪史料叢書』巻28、「神氏系図称一族系図」。時継から頼継・継宗・信嗣へ分岐する。国立国会図書館デジタルコレクション・該当画像
[注2]同系図の信嗣注記。信嗣が頼継の弟・猶子として大祝職を継ぎ、頼継の実子が神職を継がず伊那郡高遠に住んだとする。同・次コマ
[注3]宮地直一編『諏訪氏系図 正編修補』1921年。頼継を頼嗣・頼寛・直頼とし、子孫が伊那郡に住んで「高遠信濃守」と号したとする。国立国会図書館デジタルコレクション
[注4]神長官守矢家文書1428「守矢貞実手記」。暦応3年(1340)、大徳王寺城の戦。マイクロ番号21-3-322。茅野市『神長官守矢家文書目録』89頁
[注5]観応2年(1351)3月「市河経助軍忠状」、長野県立歴史館公開資料No.99。公式目録・解説・原画像
[注6]『日本歴史地名大系』「高遠城跡」項目は、『神長守矢満実書留』文明14年(1482)6月30日条の「大祝殿・千野入道高遠御越有テ」を、現存史料上の「高遠」の初見とする。「文明11年(1479)」とする説明の原史料は、今回確認できなかった。平凡社『日本歴史地名大系』高遠城跡項目『神長守矢満実書留』は、諏訪上社神長官を務めた守矢満実による15世紀の記録。『諏訪史料叢書』巻3および『新編信濃史料叢書』第7巻に収録される。国立国会図書館書誌
[注7]『長野県町村誌』第3巻、藤沢村「ゴンドノ古屋敷」。明治初期の地域伝承であり、中世一次史料ではない。ADEAC公開画像・641コマ
[注8]正慶元年(1332)8月3日「北条時方上久世庄公文職補任状案」。東寺百合文書「を函/3」。原本ではなく案文で、1407年の争論では一方当事者から真正性を疑われていた点に注意を要する。京都府立京都学・歴彩館公式データベース
[注9]桃崎有一郎「諏方(諏訪)上社・下社大祝氏族の素性来歴の再検討」2025年。『神氏系図』と「伴野荘相伝系図」の食い違いを指摘しており、後世系図をそのまま血統上の史実とはできない。武蔵大学学術機関リポジトリ
※弘妙寺の過去帳・伝来記録、北原家系図、墓石の家紋、藤沢北原における菩提寺と家の分布については、筆者による現地確認・聞き取りを含む。原本の成立年代、転記時期、墓石の建立年については今後の確認を要する。



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