甲信美名鑑の考察
- 北原
- 4月26日
- 読了時間: 3分
更新日:4月27日
甲信美名鑑とういう書物への確信性はどの程度のものか
はっきりしないところもありますが、事実としてあることから考察してみます。
1)長野県松川にある北原家のすぐそばに富士浅間神社がある
2)家系図には富士浅間神社を600年前ごろに建立したとの記述がある
3)長野県松川にある北原家のすぐそばに 日蓮宗 光蓮寺 康永元 1323年建立
4)長野県松川にある北原家のすぐそばに 臨済宗 瑞応寺 (菩提寺がある)
5)妙法山蓮華寺(長遠寺)招聘15年(1360)創建、開山身延5世日台。開基妙顯寺2世大覚大僧正。正平年中伊豆の伊東朝高の6男道源入道がこの地に一宇を建立
そして歴史を辿っていくことで、いくつかの疑問がわく。
A)当時、伊那盆地に住んでいたならば、富士山は見えず、なぜ見たことないのに
富士浅間神社をわざわざ建立したのか。
B)甲信美名鑑には『上杉安房守ニ仕へ伊豆國ニ住居ス』上杉に仕え、伊豆に住んでいた可能性があるが、これは何をしめしているのか。
C)以前考察した、諏訪高遠北原の周辺には『伊東』『北原』の妙字が多く住んでおり、
5)で記した通り、伊東氏が妙法山蓮華寺建立に関係し、これも伊豆にいる伊東氏との関わり合いを示すものではないのか。
D)菩提寺は臨済宗の瑞応寺だが、松川にある北原家が住み始めた時期と光蓮寺の建立時期・場所 そして日蓮宗との関わり合い との接点が多い。
E)諏訪から伊豆へのルートの途中に身延山久遠寺(日蓮宗の総本山)があるが、日蓮宗との関わり合いと伊豆へのルートが一致している。
(地図参照)
1323年 現在の松川上片桐の場所に日蓮宗 光蓮寺 康永元 建立
1333年 鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から伊豆の韮山に戻ったと言われている。
1335年 中先代の乱 諏訪頼重は御内人として北条時行ともに挙兵。
1335年 足利尊氏率いる追討軍に大敗 諏訪頼重、子、時継らは 鎌倉勝長寿院にて自刃。
1350年 観応の擾乱 足利尊氏(兄)vs足利直義(弟)
1360年 高遠の北原にある妙法山蓮華寺に伊東朝高の6男道源入道が建立。
1362年 上杉憲顕は関東管領・畠山国清を罷免しこれに抵抗して領国の伊豆に籠った国清を討伐
【 特筆すべき点は2点 】
1点目:高遠、北原にある蓮華寺よりも37年はやく、松川上片桐にある日蓮宗 光蓮寺が先に建立されたこと。
2点目:伝承ではあるがもともと日蓮光蓮寺から臨済宗 瑞応寺に菩提寺が変更されていること。
2点目については、この光蓮寺の建立のあと、武田信玄の影響力が大きくなった時に、臨済宗であった武田家に乗じて変更した可能性は大きい。
1点目については、中先代の乱の前から建立されていたこと。ここから考察する必要があるしれない。




ありがとうございます!絵島のお墓を祖父が兄弟3人で掃除して墓のなか開けたら刀や色々出て来たそうです。掃除して元に戻したそうです。50年位前に祖父から聞いた話です。
子供の頃56年前位に諏訪と高遠と伊那市 親戚で良く行ってましたけどもしかして親戚?諏訪の親戚の方??時計のセイコーに努めてました。。伊那は建築会社 北原建築
こんにちは!!長野県伊那市高遠城のご子孫北原です。。。絵島のご子孫との事で祖父より言われて来ました。。。お墓参りにて兄弟のみ絵島お辞儀で出て来たそうです。。。1回高遠城行ってみたいです。。